安倍元総理への菅元総理の弔事は感動的だった?





 私も安倍元総理の国葬をNHKで1時間半ほど視聴しました。(友人代表としての)菅元総理の弔事は、菅氏にしてはよい出来だと思いました。しかし、これまでの菅氏の演説のまずさや発言から考えて、この弔事の原稿は菅氏が全て用意したものではないのではないか(秘書や官僚の協力?)、と思ってしまいました。
 仮に、安倍昭恵氏に頼まれて、今回は菅氏が時間をかけて頑張って弔事をまとめたとしてみましょう。それでも、菅氏が引用した岡義武『山県有朋』(岩波文庫)からの一節「かたりあひて 尽くしゝ人は 先立ちぬ 今より後の世をいかにせむは感動を呼んだと多くのマスコミが伝えていますが、私はそれには少し違和感を覚えてしまいました。この一節を菅氏が引用した意図や込めた感情はは、多くの人々が感動したという内容と同じでしょうか?            
 山県有朋は軍人宰相(軍人で2度総理大臣に就任)であり、かっこよい死に場所を見つけることに一種のあこがれを持っており、岡義武『山県有朋』にも山県有朋は「(伊藤博文は)良い死に場所を見つけたといって羨ましがった」と何度も周辺に語ったという記述があります。  伊藤博文は中国のハルビンで、朝鮮人の安重根(あん・じゅうこん)によって銃殺(暗殺)されました。日本占領下の韓国では、安重根は英雄と讃えられその後記念館も建設されています。  これに対し、菅官房長官(当時)は2014年1月20日に談話を発表し、安重根は「日本の初代首相を殺害し、死刑判決を受けたテロリストだ」と指摘し遺憾の意を表しています。  https://jp.yna.co.kr/view/AJP20140120002500882
 常識的に考えれば - 菅元総理は実際にはそう思わなかったかも知れませんが- 安倍元総理を伊藤博文にたとえ、山上容疑者を安重根にたとえ、山県有朋を自分(菅元総理)にたとえていると受け取るのが普通であり、そうであれば、山県有朋(菅氏)が伊藤博文(安倍元総理)は「よい死に場所を見つけた(羨ましい)」と言った上で、故人を懐かしんでいることになります。  山県有朋は、その後、枢密院の議長となり、政界のフィクサーとなり、国政に影響力を持ち続けました。そうして、天皇の命令によって国葬にはなりましたが、国民から嫌われていたため、国葬の会場は人が集まらず惨めな情景だったと岡義武は書いています。
 以上の見方があたっているとしたら、菅氏の弔事は不気味(ブラック・ユーモア)です。そうではなく、前後関係を無視して「かたりあひて 尽くしゝ人は 先立ちぬ 今より後の世をいかにせむ」の字句の表面的な意味だけにこだわって(使えそうだ/感動を呼びそうだとして)言っただけというのであれば、とても薄っぺらなものになってしまいます。
 菅元総理が弔事に込めた本当の気持ちや意図はどんなものだったのでしょうか? 

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